「サケ漁は秋だけ」という誤解。80万尾の稚魚と向き合う、知られざる「春の激闘」の真実

コラムその他
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「サケ釣りやサケ漁は秋だけのもの」だと思っていませんか? 実は、私たちの食卓や釣果を支える戦いは、雪解けの3月から既に始まっています。現在、サケの回帰率は低下し、資源確保はかつてない困難に直面しています。その解決の鍵を握るのが、「海中飼育」という工程です。定置網漁師が1年をかけて繋ぐ「命のバトン」の全貌を、現役の視点から公開します。1尾のサケに出会える奇跡の背景を知り、海への感謝が深まるはずです。

母川回帰の鍵は「春」にあり!古平漁港で刻まれる命の羅針盤

サケという魚が、数千キロの旅を経て再び生まれた川へ戻ってくる「母川回帰」。この驚異的な能力の基礎は、実は放流前のわずか20日間、漁港の中での「海中飼育」によって形成されます。この時期にサケが地元の水の「磁気」や「匂い」を覚えることこそが、4年後の豊漁を左右する最も重要なプロセスなのです。

なぜなら、人工孵化場で守られて育った稚魚にとって、外界である海はあまりに未知で過酷な環境だからです。清らかな水で育った稚魚は、体長4~5cmほどで運ばれて来ます。ここでいきなり大海原へ放流するのではなく、漁港内の生簀で約20日間過ごさせることで、稚魚の脳に「ここが帰るべき場所だ」という強烈な記憶を焼き付けます。科学的にも、サケは幼少期に過ごした場所の磁気情報や固有の水の成分を記憶すると言われており、このステップを欠いては回帰率は劇的に低下してしまいます。

具体的な作業としては、一つ約8メートル四方の生簀に40万尾以上という膨大な数の稚魚を収容し、昼と夕方の1日2回、丁寧に餌を与えます。この20日間は、まさに稚魚が「川の子」から「海の子」へと脱皮する、生理学的にも極めて重要な期間です。海水温の変化に体を馴染ませ、塩分濃度に適応しながら、故郷の味を記憶に刻んでいく。この「馴化(じゅんか)」のプロセスがあるからこそ、彼らは北太平洋という広大な迷宮で迷うことなく、再び積丹の海へと帰ってこられるのです。

このように、秋の収穫は春の「記憶づくり」から始まっています。私たちが目にする銀鱗の輝きは、この春の20日間に刻まれた、目に見えない「命の羅針盤」が導き出した結果に他なりません。


コントロール不能な自然との対峙!80万尾の生簀で繰り広げられる「個」のドラマ

海中飼育の現場は、決してマニュアル通りにはいきません。結論として、漁師が直面するのは「海水温はコントロールできない」という自然の厳しさと、それぞれの個体が持つ「生命力の差」という残酷な現実です。

その理由は、生簀が置かれているのは管理された水槽ではなく、常に変化し続ける「本物の海」だからです。孵化場では安定していた環境も、漁港では潮の満ち引きや天候によって刻一刻と表情を変えます。私たちはその中で、80万尾程度(生簀は複数)の稚魚にまんべんなく餌が行き渡るよう、細心の注意を払います。しかし、自然界の摂理として、どうしても食欲旺盛で強く育つ個体と、うまく餌を食べられずに弱ってしまう個体に分かれてしまいます。

防止はしていますが、敵が網の外には多くいます。鳥や自分より大きな魚です。この時期はホッケが狙いにやってきます。稚魚守る立場から言うとホッケは外敵なので釣り人に多く釣って欲しいという願いがありますが、いまはこの場所は釣り禁止ゾーンなので駄目なんです。

現場での苦労は、まさにこの「個体差」への対応にあります。同じ生簀の中でも、競り勝って大きくなる強い魚がいれば、隅の方で体力を消耗する弱い魚もいます。「全個体を等しく大きくしたい」というのが親心ですが、自然はそれを許しません。私たちは、少しでも多くの稚魚が健康に育つよう、風向きや潮の流れを読みながら、餌を撒く位置やタイミングを微調整し続けます。海水温を人間が変えることはできませんが、その条件下で「今、魚が何を求めているか」を感じ取ることが、漁師の腕の見せどころとなります。

したがって、放流される稚魚の中には、既に格差が存在しています。しかし、その弱肉強食の世界こそが、外洋の荒波を生き抜くための「選別」でもあるのです。私たちは、目の前の1尾1尾が持つ生命力を信じ、限られた20日間という時間の中で、できる限りのサポートを尽くすことしかできません。この葛藤こそが、命を育てる仕事の核心なのです。


1年がかりで完成する「人工孵化放流」の全行程

サケ漁師の仕事は、網を揚げることだけではありません。結論を言えば、秋の2ヶ月の漁を成立させるために、私たちは残りの10ヶ月を「準備」と「育成」に費やしています。

国立研究開発法人水産研究・教育機構(FRA)の工程図が示す通り、そのサイクルは非常に緻密です。秋、川に遡上した成熟した親魚から、切開法により慎重に採卵を行い、雄の精子をかけて受精させます。そこから冬の間、卵は孵化場で仔魚へと成長し、お腹の「さいのう(栄養の袋)」を吸収して浮上し始めます。この小さな命が、京極町の飼育池で乾燥配合飼料を食べ、体長4~5cmの「稚魚」になるまで育て上げるのが冬の仕事です。

そして3月、いよいよ舞台は漁港へと移ります。海中飼育施設の準備は、まだ寒風吹き荒ぶ中で行われます。トラックで運ばれてきた稚魚を生簀へ移し、前述した「記憶の定着」と「海水への適応」を20日間かけて行います。これら全ての工程を経て、ようやく稚魚たちは大海原へと旅立っていきます。卵から放流まで約半年、そして海で過ごす3年半。合計4年という長い月日を経て、ようやく1尾のサケが「商品」として、あるいは「ターゲット」として私たちの前に現れるのです。

この長大なプロセスを知ると、サケという資源がどれほど多くの人の手と、長い時間をかけて守られているかが分かります。単なる「自然の恵み」という言葉だけでは片付けられない、システマチックかつ情熱的なバックアップ体制が、北海道のサケ漁業を根底から支えているのです。

日本で組織的なサケの人工孵化放流が始まったのは、1870年代(明治初期)です。

  • 1876年(明治9年): 米国から帰国した関沢明清(日本水産の父)らが、アメリカの技術を導入して東京の利根川や中川で試験的に行ったのが始まりとされています。
  • 1888年(明治21年): 北海道での本格的な拠点として、石狩川支流に「千歳中央孵化場」が建設されました。これが現在の北海道におけるサケ増殖事業の大きな原点です。

「三流の釣り環境」を変える一歩!漁師の苦労を知る教育的意義

日本の釣り環境を「一流」にするためには、こうした漁師側のバックグラウンドを釣り人が正しく理解することが不可欠です。結論として、放流事業のディテールを知ることは、釣り場でのマナー向上や資源保護意識の醸成に直結します。

なぜなら、サケは「勝手に湧いてくるもの」ではないからです。前述の通り、漁師は多額の経費と労力をかけ、海水温に一喜一憂し、80万尾の稚魚の健康を祈りながら育てています。もし、釣り人が生簀の近くでゴミを捨てたり、違法な手段で魚を傷つけたりすれば、それは漁師が1年かけて積み上げてきた努力を足蹴にする行為に他なりません。日本は世界トップクラスの釣具を作っていますが、こうした「命を育てるプロセス」への敬意や教育に関しては、まだ改善の余地があると言わざるを得ません。

私たちは、単に魚を捕るだけの存在ではありません。海を耕し、命を植える「海の農家」でもあります。この認識が広く共有されることで、日本の海はより豊かで、より開かれた素晴らしいフィールドへと進化していくことができると確信しています。


まとめ:4年後の「銀鱗」に願いを込めて

サケの漁は秋だけではありません。3月の凍えるような風の中で生簀を準備し、80万尾の稚魚に餌を撒き、「無事に帰ってこい」と祈りを込める春の作業こそが、豊漁の真の出発点です。

  • 磁気と水を覚える20日間の「海中飼育」が、母川回帰を支える。
  • 海水温や個体差という「自然の摂理」と向き合う漁師の葛藤がある。
  • 1年を通じた孵化放流事業が、日本のサケ資源を守っている。

私たちが秋に出会う1尾のサケには、4年前の春に漁師と共に過ごした「記憶」が刻まれています。

Q
サケが生まれた川に迷わず戻ってくる「母川回帰」は、どのようにして形成されるのですか?
A

放流前の春に行われる、約20日間の「海中飼育」によって形成されます。 孵化場で育った稚魚をすぐに海へ放つのではなく、漁港の生簀で過ごさせることで、地元の水の「磁気」や「匂い」を記憶させます。この期間に海水に適応しながら故郷の情報を脳に焼き付けることが、4年後に迷わず帰ってくるための「命の羅針盤」となります。

Q
春の海中飼育において、漁師が直面する一番の困難や苦労は何ですか?
A

コントロールできない「自然環境(海水温など)」と、稚魚の「生命力の個体差」への対応です。 生簀は本物の海にあるため、潮の満ち引きや天候が常に変化し、ホッケなどの外敵も狙ってきます。その中で、強い個体と弱い個体の差が出ないよう、風向きや潮の流れを読みながら80万尾もの稚魚にまんべんなく餌を行き渡らせることが最大の苦労です。

Q
サケは秋に獲れるイメージですが、サケ漁師は秋以外にどのような仕事をしているのですか?
A

秋の漁を成立させるため、残りの10ヶ月をサケの「準備」と「育成」に費やしています。 秋に遡上した親魚から採卵・受精を行い、冬に孵化場で稚魚まで育て、春に漁港で海中飼育を行ってから放流します。サケ漁師は魚を捕るだけでなく、1年を通じた「人工孵化放流」事業を通じて命を育てる「海の農家」としての役割を担っています。

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