あなたは「漁業」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?早朝の海、漁師たちの勇ましい姿、そして新鮮な魚…そんなイメージは“半分正解”です。
実際に東積丹でニシン漁を体験した私も、最初はロマンと興奮に満ちた世界を期待していました。でも、現実はその何倍も“筋肉痛と根気の世界”だったのです。
この記事では、ただの魚の水揚げにとどまらない「漁の後に始まる本当の戦い」を、どんな作業があり、なぜそれが重要なのかを余すところなくお伝えします。
1日に最大15トンのニシンを8人で水揚げした経験を通じて、漁師たちの凄さと繊細な仕事ぶりを体感しました。見た目ではわからないオス・メスの違いを見極める作業に何時間もかかる現場の“リアル”があります。
「ただの魚仕分けでしょ?」そんな風に思った方にこそ読んでほしい。水揚げから出荷まで、ひとつひとつに魂がこもった作業があるのです。ぜひ最後まで読んで、漁の現場がどれほどドラマに満ちているかを感じてください。そして、次にニシンを食べるとき、少しだけその背景を思い出してもらえると嬉しいです。
東積丹の春を告げる、ニシン漁が最盛期を迎える
ニシン漁が本格化する東積丹は、海と人が最も近づく季節だ。
北海道・東積丹の春。それは、海が荒れ、気温差が厳しくなる一方で、ニシン漁が最も活気づくシーズンでもあります。この時期、地元の漁港には船が出入りし、空気は冷たくとも、人々の表情は熱気に包まれています。ニシンは産卵のために沿岸に群れをなしてやってくる。この一瞬の“黄金タイム”を逃さず、漁師たちは一気に勝負をかけます。まさに海と命が交差するドラマの始まりです。
釣りをしている方なら、少し感覚的には遅いように感じるかも知れませんが、長年同じ期間で漁をしているそうです。私が手伝いに行っているのは定置網なので岸からもすごく近い場所です。秋になれば鮭の定置網と同じ場所です。
定置網の設置も3日かけて作業をします。場所も決まっているのでどこでも定置網を仕掛けることはできません。ニシン漁での親方は89歳と高齢ですが、陸地では腰も曲がりヨボヨボ感は否めないです。しかし、沖に出れば雰囲気が変わります。漁の歴は74年と大ベテランです。
なぜこの漁が重要なのか?それは地域の暮らしと誇りを支えるから。
東積丹にとって、ニシン漁は単なる仕事ではありません。それは「地域の文化」であり、「家族の誇り」であり、「暮らしの基盤」でもあります。ニシンが水揚げされる量は、少ない日でも6トン、多い日では15トン以上にもなります。この量が意味するのは、経済的な価値はもちろんですが、地域全体に活気を与える“季節の息吹”なのです。また、漁に参加するのは地元の漁師だけでなく、周辺地域から助っ人として呼ばれる者も多く、地域の人と人との絆を強める一大イベントでもあります。
私が体験した“助っ人漁”のリアル
実際に私も、助っ人としてニシン漁に参加する機会を得ました。昨年の鮭漁はメインメンバーとして働いていましたが、ニシンはもちろん初体験でした。
朝はまだ暗い時間から港に集合し、船でポイントまで移動します。風は冷たく、波は荒く、しかしそこにあるのは、凛とした張り詰めた空気と、海に挑む男たちの眼差し。掛け声をかけてタイミングを見て一気に引き上げる。すると、銀色に輝くニシンが大量に跳ね上がり、船上は一気に熱気を帯びます。その瞬間、「漁に来た」という実感が一気に押し寄せ、寒さも疲労も吹き飛びます。
1日で6〜15トンもの魚を揚げる作業は、一言で言えば“重労働”。しかし、その中には達成感、仲間との一体感、そして自然との真剣勝負の醍醐味が詰まっています。作業が終わるころには、全身が痛み、体力も尽き果てますが、同時に「やり切った」という充実感が胸を満たします。
ニシン漁は、過酷であると同時に、誇り高き仕事だ
東積丹の春に行われるニシン漁は、まさに“命を懸けた現場”。自然の厳しさと向き合いながら、地域の食文化を支えるこの漁は、単なる経済活動を超えた価値を持っています。もしあなたが、海の仕事にロマンを感じたことがあるなら、ぜひ一度、東積丹のニシン漁の現場に思いを馳せてほしい。そこには、人と海の真剣勝負、そして“生きる力”が詰まっているのです。
1日15トンの重労働!網上げの現場はまさに海上の戦場
ニシン漁の現場は、ただの“魚獲り”ではない。海上の戦場とも言える肉体の極限との闘いだ。
ニシン漁における最も過酷な場面、それは「網上げ」の瞬間です。魚を捕るというより、まるで海と力比べをしているかのような壮絶な作業。中でも東積丹の漁は1日6トンから、多いときで15トンものニシンを引き上げます。その重さを、8人の男たちで引き上げるわけですから、想像を超える重労働です。
筋肉痛は翌日以降に感じるものだと普通は思うのでしょうが、仕事が終わって緊張がほどけた瞬間から体に痛みを感じるようになります。年を重ねると翌々日に筋肉痛になるのですが、帰りの車から降りた瞬間から「あちこちが痛くなります」。
理由は単純明快。それは“魚の重さと網の重さ”が合わさるからです。ニシンは1匹あたり200〜300グラム程度ですが、それが数万匹と網の中に集まることで、とてつもない重量になります。さらに、海水を含んだ網自体も重く、ニシンの卵が網いっぱいに産み付けられています。そのため、1回の網上げ作業で何百キロ、時には1トン近い重さになることも。これを人力で引き上げなければならないのです。
波が高ければ、船の揺れで足元がふらつき、体勢を崩すこともあります。寒さで手の感覚がなくなる中、ロープを掴む力は常に全開。船上には「うぉーっ!」という気合いの声が響き、全員が息を合わせて引き上げるその瞬間は、まさに“戦場”です。
8人で挑んだ網上げ、全身が震えるほどの連携プレイ
朝4時半から準備が始まります。天候は曇天、海はやや荒れ模様。正直、最初は「少し大変なくらいだろう」と思っていました。しかし、甘かった。
網が上がってくるにつれて、船の揺れが激しくなり、足元はぐちゃぐちゃの魚で滑る。体を前傾にしながら、網を一気に引く。船上の仲間と声を掛け合いながら力を合わせるのですが、腰や肩にかかる負担は想像を超えていました。
途中、網の途中で魚が暴れ、網がねじれたりする場面もあり、そのたびに船が揺れる。1時間ほどの作業を終えると、息も絶え絶えで、体は汗と海水でびしょ濡れ。しかし、船にあがったニシンの銀色の輝きを見た瞬間、その苦労は一気に吹き飛ぶのです。
重労働の先にあるのは、“自分にしかできない仕事をした”という誇り。
網上げ作業は、ただの体力勝負ではありません。仲間と呼吸を合わせ、タイミングを見極め、全力を尽くす協調の力が必要です。そこには、肉体を酷使するだけではない、“職人技”とも言える技術と判断が求められます。
重く厳しい作業の中にも、漁師としての誇りや美学が確かに存在しています。東積丹のニシン漁を支えているのは、そうした“力”と“連携”の結晶なのです。そしてその先に待つのは、次の工程は魚の選別という、まったく別の“戦い”です。
本当の戦いは水揚げ後に始まる〜ニシンの選別作業〜
ニシン漁の本当の難所は、水揚げ後に待ち構える“選別作業”にある。
「漁」と聞くと、多くの人は網を上げて魚を取るところまでを想像するかもしれません。しかし、実はそこからが本当の戦いです。大量のニシンを水揚げしたあと、次に待っているのが“オスとメスの選別作業”。この工程こそが、漁の成否を大きく左右する最重要工程と言っても過言ではありません。
この選別作業は、時間も労力も必要な極めて繊細な仕事。一匹一匹を手に取り、性別を確認するという、地道かつ集中力を要する作業です。
なぜ選別作業がそんなにも重要なのか?
理由は明確です。オスとメスでは、流通経路も、価格も、需要も異なるからです。特にメスは“数の子”を抱えているため価値が高く、適切に分類されなければ市場での評価を落としかねません。
しかし見分けは決して簡単ではなく、熟練者でも判断を誤ることがあります。明らかに違いがある個体もいれば、パッと見ただけでは判別が難しい“グレーゾーン”の魚も数多く存在します。こうした個体を、見逃さずに仕分ける作業には、高い集中力と経験、そして妥協を許さない姿勢が求められるのです。
また、大量に揚がるニシンを短時間で仕分けるためには、スピードも重要。市場は鮮度を重視するため、選別が遅れれば品質が落ち、取引価格にも響きます。そのため、「早く、正確に」という相反する要求の中で作業を続けなければならないのです。
微妙な魚を見極める“目利き”の力
私も実際にこの選別作業を経験しました。最初は「見ればすぐ分かる」と思っていましたが、そんなに甘くはありません。明らかに卵を抱えたメスや、白子を持ったオスはすぐにわかります。しかし、中にはどちらともつかない、判断に迷う個体も存在します。
「これは…メスかな? いや、オスかも…」と悩んでいると、隣のベテラン漁師が一目で判断し、迷いなく仕分けをしていきます。その手際の良さ、目の鋭さに圧倒されました。まさに“経験と勘”がものを言う世界です。
しかもこの作業、延々と続きます。数千匹の魚を、一匹ずつ確認するという気の遠くなるような作業。それでも誰一人として手を抜くことはありません。魚の命を預かる責任感と、プロとしての矜持がにじみ出ていました。
選別作業こそ、ニシン漁の品質を決定づける要の工程。
この選別作業を見ていると、「漁」という仕事は単なる力仕事ではないことがよく分かります。大量に魚を揚げる力と、それを正確に分類する目。この2つが揃って初めて、高品質な水産物が市場に出回るのです。
表には出ないけれど、最も神経を使うこの工程こそが、ニシン漁を“誇れる仕事”にしている所以。私たちがスーパーや市場で見る魚の裏には、こうした見えない職人技と努力が詰まっているのです。
漁師たちの知恵と連携が光る「現場の美学」
ニシン漁の現場には、言葉では語り尽くせない“連携の美学”がある。
ニシン漁は、体力勝負であると同時に、チームワークの勝負でもあります。大量のニシンを確実に、そして品質を保ちながら水揚げ・選別・出荷へとつなげていくためには、個々の力だけでなく、全体が“ひとつの流れ”として動く必要があります。
その一連の動きには、無駄がなく、迷いがなく、まるでリズムを奏でるような連携があります。そこにこそ、漁師たちの知恵と誇りが凝縮されているのです。
効率と品質を両立させるには、熟練の“流れ”が必要不可欠だから。
ニシンは鮮度が命。水揚げされた瞬間から、刻一刻と鮮度は落ちていきます。そのため、選別から出荷までの作業は“スピード”と“精度”の両立が必要です。
この要求に応えるためには、誰がどのタイミングで何をするかが、細かく分担されていなければなりません。例えば、網を引き上げたらすぐに魚を仕分けるチームがスタンバイし、そこから選別作業へ。そして選別された魚は、冷却・箱詰め・出荷へと流れるように移動します。
この一連の動作は、あうんの呼吸で行われており、特別な指示がなくても自然と各自が動ける。それが、何年、何十年と培ってきた“現場の知恵”であり、“漁師の美学”なのです。
無言のうちに役割を果たす、それが漁師の連携
私が体験した現場では、驚くべき連携プレイが次々と展開されました。誰がどこに立ち、どう動くかを一切言葉にせずとも全員が理解している。魚が網から外れそうになれば、隣の人がすぐにサポートに回る。選別のスピードが落ちそうになれば、別の作業を終えた人が手伝いに入る。
声を荒げることもなく、怒号が飛ぶこともない。必要最小限の言葉で、まるで“目配せ”だけで作業が進んでいくその様子は、まさに“漁師の連携芸術”でした。
さらに印象的だったのは、若手からベテランまでが互いをリスペクトし合っている空気です。若い人の判断ミスをベテランが補い、ベテランが疲れてきたら若手が力を出す。役割は違えど、みんなが“ひとつの成果”に向かって動いているのです。
漁師の現場には、効率と誇りが共存する「生きた美学」がある。
ニシン漁の現場は、一見すると単なる作業の連続に見えるかもしれません。しかしその裏には、時間と経験が育てた“連携の知恵”が脈々と息づいています。そしてそれは、決してマニュアルでは教えられないもの。
現場の一人ひとりが「自分の役割を果たす」だけでなく、「全体を見て動く」ことで成り立つこの美学こそが、ニシン漁を成立させているのです。
もしあなたが「仕事の本質とは何か?」を知りたいなら、東積丹のニシン漁の現場を一度、覗いてみてほしい。そこには、言葉にできないほど深い、人間の連携の力と、海に生きる者たちの誇りがあります。
命と向き合う現場から学んだこと〜ニシンの向こうにある物語〜
ニシン漁は、ただの“労働”ではない。命と真剣に向き合う、人生の縮図だ。
東積丹でニシン漁を体験したことで、私はただ魚を獲るという行為を超えた“命との対話”を体感しました。海に出ること、魚を獲ること、仕分けること──それらすべてが、「人が自然と共に生きるとは何か?」という問いに向き合う行為だったのです。
そして、その答えは現場のすべてに込められていました。寒さや重労働、集中力のいる作業の中にある、自然の恵みと命の重み。そこに、人間として大切な“何か”を見出すことができました。
命あるものを扱うという責任が、人の姿勢を変えていく。
ニシン漁は、一匹の魚を雑に扱えばすぐに品質が落ち、命の価値が無駄になります。だからこそ、どんなに疲れていても、誰もが丁寧に魚を手に取り、慎重に仕分けを行います。これは単なる業務効率ではなく、「命をいただく者の責任」を自然に背負っているからです。
また、自然相手の仕事であるがゆえに、“思い通りにならないこと”も多々あります。天候の急変、思ったより少ない漁獲、時間との戦い──それらすべてを受け入れ、次に活かす柔軟さと謙虚さ。これもまた、自然と共に生きる漁の中で育まれる感覚です。
都市での生活では、つい忘れがちなこの感覚こそ、現代の私たちが最も必要としている“感性”なのかもしれません。
一匹の魚の重みが、人生観さえ変える
ある日の漁で、私はたった一匹のニシンの選別に思わず手が止まりました。サイズも小さく、どちらともつかない見た目。そのとき、隣の漁師がふと言いました。
「こういうのが一番むずかしい。でも、こういう一匹にも命がある。だからちゃんと向き合ってやらんといかん」
その言葉は、胸の奥に深く響きました。大量の魚に囲まれていると、つい“モノ”として見てしまいがちです。しかし、目の前にあるのは確かに命。そして、その命に丁寧に向き合うことで、自分自身の生き方までもが問われているように感じたのです。
それ以来、私は魚だけでなく、日常のあらゆるものに対して「これはどんな命の結果なのか」と考えるようになりました。食べ物、服、道具──すべてに誰かの手と、命がある。その気づきは、漁という現場でしか得られなかった貴重な学びでした。
ニシンの向こうには、人と自然、命と向き合う物語がある。
ニシン漁の体験を通して得たものは、魚の扱い方だけではありませんでした。それは、“生きること”そのものを見つめ直す時間であり、自然の中で生きる人たちの“姿勢”に触れる時でもありました。
私たちは日々、目の前にある「結果」ばかりに目を向けがちです。しかし、その背後には、膨大な時間と労力、そして命との対話があります。ニシンの銀色の輝きの向こうには、それを獲る人々の想いと、自然との共存の物語が流れているのです。
次にあなたが魚を口にする時、その一匹の背景に思いを馳せてみてください。その瞬間、日常がほんの少し、深く温かいものになるはずです。